本日付け、わかやま新報、とらふすクラシック・119。
フーガの技法~静寂の音世界を聴く
クラヴィーア奏者 山名敏之
20世紀初頭、電気録音の開発が始まって以来、音楽は電気的な増幅によって騒音にも負けないような大音量で聴くことが可能となり、同時に実際に響く楽器の音質や音量のバランスといった音響効果が電気的に加工されるようになり、今やスマホに内蔵されたそう悪くもない音質によって、他人に迷惑をかけることなく手軽に耳にすることができるようになりました。
J.S.バッハが生きていた18世紀以前の人々が時空を超えて現代に現れたと仮定してみましょう。電気的再生によって世の中に溢れている音楽を、彼らは驚嘆すべき習俗として敬服する一方で、デパートで買い物をしながらJ.S.バッハの音楽を享受できる聴取状況について、彼らが豊かな文化として認めるかどうかについては極めて疑問が残るところです。
音楽を聴くこと、つきつめていえば「響き」への神経の傾注という、聴取において最も重要な要素を比較した場合、現代人とは全く異なった響の世界に生きていた18世紀以前の人々は、聴取者として我々現代人よりもはるかに優れていた可能性があるからです。その象徴的な存在としてクラヴィコードをあげることができるでしょう。クラヴィコードという楽器は大変音の小さい楽器です。その音世界に慣れてくると蝋燭の炎の音さえ聴こえてくるのではないかと錯覚してしまうほどです。
電気再生による音楽が溢れる現代においては考えられないこの静寂の音世界は、しかし18世紀までは当たり前に存在し、J.S.バッハをはじめとし、ハイドン、モーツァルトといった作曲家は作曲をするにあたってこの楽器を愛用し、バッハは「ロ短調ミサ」を、ハイドンは「天地創造」を、モーツァルトは「レクイエム」を作曲したのです。極小の響きと壮大にして交響的な響きが同等の方向性と広がり持っていたのが18世紀のヨーロッパでした。現代社会の喧騒や電気増幅された音源に慣れてしまった私達の耳に、クラヴィコードの音世界は大きな衝撃をもたらすことでしょう。
プロフィール
東京藝術大学卒業。オランダ留学後NHK「ぴあのピア」に出演。ハイドンのCDはレコード芸術(特選盤)等。大桑文化奨励賞。和歌山大学教育学部教授。